“谷根千”の呼称で知られる東京都文京区と台東区が隣接する谷中・根津・千駄木は、テレビや雑誌などのメディアで取り上げられる機会が多い、人気のエリアだ。千代田線の根津駅から徒歩4分の場所で営業しながら、地元の人々に愛されているお店が「La Cuji」(ラクジ)である。開業は2007年11月。地元の住民でもある私は、人気が高まるにつれてマンションが建設され、他所から移住する人々の増加に伴って飲食店が増える、という街の移り変わりを日常的に目にしてきた。根津に限定しても「La Cuji」の後に開業した飲食店は多数あり、その意味ではすっかりこの街の雰囲気に溶け込んだ存在と言えるだろう。
「うちの店に関しては、水商売としてのジャズ喫茶だと思っているんですよ」。こう話す店主の坂井周太郎さん(53)は、東京・九段の老舗すきやき店から転身した方。4代目の父親のもとで5代目として同店で20年間、家族と共にお店を切り盛りしていたが、母親の他界や営業環境の変化を受け、12年前にそちらを畳んで、根津に自宅兼店舗を新築したというわけである。高校生の時からジャズを聴き始め、大学時代は明大前「マイルス」の常連に。同じような体験を持ち、50代に脱サラをしてジャズ店を持つ男性は少なくないが、坂井さんは大学卒業後すぐに調理師学校で学び、飲食店での経験を積んでいて、それが前述の経営理念の基盤に繋がっている。
自宅兼店舗の建築にあたっては立地条件を踏まえて、耐震構法による重量木骨を採用。四隅以外には柱を必要としない店内空間が実現できるメリットがあったという。美術館の建築仕事に明るい設計士と、坂井さんの学生時代からの友人でもある材木店が内装を手掛けており、それゆえに落ち着きのある洗練された雰囲気が醸し出されている。樹齢200年のチークを使用したカウンターと、ゆったりサイズの椅子も、居心地の良い空間の立役者だ。
「店名を考えた時に、根津は下町なので英語ではない言葉を探して、漢詩の『人生行楽耳』を見つけました。“楽耳”が“La Cuji”になったというわけです」
これだけ魅力的なお店ならば、イヴェントやパーティーの需要も高いと思うのだが、坂井さんは特に望んでいるのではないとのこと。「日頃来ていただいているお客様にとっての、いつでもこういう雰囲気という安定した場所でありたい」から、だという。ライヴハウスではない小規模の飲食店でも、店主とミュージシャンの思いが一致してイヴェントが実施されるのが一般的になっている昨今。そんな風潮と一線を画す姿勢は、誰もが温厚な印象を受ける外見とは異なり、「押しつけがましいことが嫌いな江戸っ子気質」と自己分析する坂井さんの、声高に主張することのないこだわりなのだと感じた。
イレギュラーなイヴェントではない、店内を利用したアート展の実績があって、それはお客様がクリエイターだということから実現した例。営業目的ではない関係から自然な形で発展することを良しとする坂井さんは、2500枚のLPを片面ずつかけるスタイルを守りながら、最寄りの東京芸術大学の学生らの若者にジャズの魅力を伝える草の根運動にも取り組む。
ジャズ評論家の私が地元にあることを誇りに思う名店である。
<私の好きな1枚> ジョニー・グリフィン『スタジオ・ジャズ・パーティー』(Riverside)
明大前「マイルス」で初めて聴いた思い出の1枚。ジャズの楽しさをこんなに体現したアルバムがあるのだと、衝撃的でしたね。スタジオに入ったミュージシャンたちが楽しそうに演奏している様子がダイレクトに伝わってくるのが魅力。ジャズのライヴの面白さも教えてくれました。