ジャズ界でソロ・ピアノというジャンルが確立されたのは1970年代だった。レイ・ブライアントがオスカー・ピーターソンの代打として《モントルー・ジャズ祭》のステージに立ち、喝采を浴びたのが72年。71年に『フェイシング・ユー』(ECM)を録音したキース・ジャレットは、その後ソロ・コンサートで独自のジャンルを切り開いた。他にローランド・ハナ、ポール・ブレイ、セシル・テイラーらが次々とソロ・ピアノ作を吹き込み、ブームを巻き起こしたのである。ピアノ1台だけの演奏は、そのピアニストの力量やセンスがすべて明らかになるスタイルだが、様々な個性を持った人たちが果敢に挑んで一つのジャンルが形成されたわけだ。今回リリースされる本アルバム『アローン』は上記のムーヴメントに先立つ68年録音。ビル・エヴァンスにとってリアルタイムでは初めての、全編無伴奏ソロ・アルバムである。リアルタイムと断ったのは、レコーディング上では同じセッティングが、本作以前に残されているからだ。
85年にリリースされた『コンプリート・リヴァーサイド・レコーディングス』で初めて世に出た音源に、アルバム2枚分に相当する未発表ソロが含まれていた。それらは後に単独作の『ザ・ソロ・セッションズ Vol.1』『同 Vol.2』として発売。録音は63年1月で、『アローン』の5年8ヶ月前のスタジオ・セッションである。当時エヴァンスはリヴァーサイドから他のレーベルへ移籍するため、できるだけ早く2つのプロジェクトを録音することになっていた。その一つとしてセッティングされたのが同作だったわけだ。レコーディングに関しては次のようなエピソードが残されている。問題は録音の手順に発生した。プロデューサー、オリン・キープニューズの意向にしばしば反し、エヴァンスはピアノの残響音が消える間もなく次々と曲を演奏し続け、キープニューズは苛立ちを募らせた。エヴァンスはかつて見せなかったほどの、荒々しい感情をむき出しにしたプレイを披露。それらの演奏からは今日我々が聴いても生々しく感じられるほどの、ただならぬ気配が漂っている。結局作品化にはふさわしくない音源と判断され、お蔵入りに。ようやく日の目を見たのは、エヴァンスの他界から5年後の85年のことだった。
ここで指摘したいのは、リアルタイムの初無伴奏ソロ作が、いくつかの伏線を経て生まれたということなのだ。公式作としては本作以前に、エヴァンスは2枚の多重録音ソロ・アルバムを制作している。63年の『自己との対話』は2ないし3パートのピアノ演奏をオーヴァーダビングして完成させたもの。演奏はデュオの形式に則って、一方が主旋律を奏で、他方がコンピングを入れながら、やがて双方が交差し合う展開で、曲によってそこに第三声が加わっている。初リーダー作からピアノ独奏にも意欲的だったエヴァンスが、63年2月に至って自分一人の演奏によって表現できる世界を、さらに一歩前進させたのがアルバム・コンセプトの基本だと言っていい。ピアノ・デュオまたはトリプル・ピアノの自演とは、ファースト・トリオで打ち出したインタープレイという革新的な方法論を、自己完結させた産物だと考えることも可能だ。エヴァンス本人のライナーノーツには次のように記されている。「それぞれのトラックの作用は異なっている。最初の二声が交わした会話に反応したりコメントを加えるというよりも、第三声はまるで違う声を発している。つまり私が感じるのは、本作の音楽はソロというよりも“トリオ”の性質を持っていることなのだ」。この4年半後、再び多重録音にチャレンジしたのが『続・自己との対話』だ。前回の経験を踏まえて、3パートではなくデュオ形式で録音したのが特徴。録音技術の向上が多重録音から生じた不自然さを解消したことも特筆される。これら2作品の成果を踏まえて、1年後にエヴァンスはスタジオ入りし、『アローン』のレコーディングに臨んだ。
本作の原盤ライナーノーツでエヴァンスは、「一人で演奏している時に音楽と一つになり」、「自分がプロの演奏家であるにもかかわらず、どちらかと言えば聴衆抜きに演奏することを好む」と告白した上で、「私がソロ・ピアノ・レコーディングで表現したかったのは、この特別な感覚なのです」と述べている。ここでは共演者という他者との関係性を含まない分、エヴァンスの特質であるリリシズムが、よりピュアな形で現れている。今回はオリジナル仕様ということで、収録曲は5曲だが、過去のCD化では同セッションから「オール・ザ・シングス・ユー・アー/ミッドナイト・ムード」と「ア・タイム・フォー・ラヴ(別テイク)」が追加収録され、2002年リリースの「マスター・エディション」には別テイク4曲と未発表1曲の5つのトラックが加わった。なお本作は70年度グラミー賞ジャズ・スモール・グループ部門の最優秀作品に輝いている。
「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」は53年のミュージカル『フランダースのカーニヴァル』の挿入曲。意外なことにエヴァンスが吹き込んだのは、本作が最初で最後だった。お蔵入りになった63年の『ザ・ソロ~』から2枚の多重録音作を経て、本作に至った歴史を重ねると、この曲の重みが増すというものだ。エヴァンスのリリシズムと表現美が発揮されたトラックだ。「ア・タイム・フォー・ラヴ」は「いそしぎ」の作曲者としても知られるジョニー・マンデルが66年に作曲。この曲のエヴァンス・ヴァージョンが聴けるのも本作だけだ。このような比較的新しい曲をいち早く採り上げるあたりは、エヴァンスの美旋律に対する鋭い探求心の表れだと思える。エヴァンスは7年後の75年に独奏作『アローン(アゲイン)』を吹き込むが、ここでのサウンドが同作に通じるような響きを有していることに注目したい。「ミッドナイト・ムード」は作曲者のジョー・ザヴィヌルが65年作『マネー・イン・ザ・ポケット』で発表したバラード。エヴァンスは本作で初めてカヴァーして以降、『シンス・ウィ・メット』で再演し、没後の発掘ライウ作にも収録されるなど、70年代の重要なレパートリーとした。エヴァンスがどのような経緯でそうしたかは詳らかではないが、同時代のピアニストのカヴァーという点では、デニー・ザイトリンの「クワイエット・ナウ」に並ぶ秀曲だと思う。
文字通り、エヴァンスは深夜の情景を自分のカラーで描いてみせる。「オン・ア・クリア・デイ」は65年のミュージカル『晴れた日に永遠が見える』のテーマ曲。これも本作が唯一の吹き込みだったわけだが、ソロとトリオのレパートリーは別物だと考えていたのだろうか。ここでも自分の世界を構築したエヴァンスの姿が印象的だ。「ネヴァー・レット・ミー・ゴー」は「モナ・リザ」のソングライター・チームであるジェイ・リヴィングストン=レイモンド・エヴァンスのナンバーで、56年の映画『ザ・スカーレット・アワー』の挿入曲。この曲を含め、全5曲中4曲がエヴァンスにとって初演で、再演をしなかった点は要注目だ。14分超の演奏はまさしく本作のハイライトであり、多重録音なしの独奏で表現可能な世界をとことん追求したエヴァンスの姿勢が表れたトラックである。