セクステット作『マイルストーンズ』(1958年2、3月録音)でモード・ジャズの第一歩を刻んだマイルス・デイヴィス(tp)は、その直後にレッド・ガーランド(p)が退団したため、次のピアニストを見つけなければならなかった。ジージ・ラッセル(ldr,comp)に相談したところ、ビル・エヴァンスを推薦される。ラッセルは56年の『ジャズ・ワークショップ』でエヴァンスを起用し、自ら指揮した57年のライヴ『ブランダイズ・ジャズ・フェスティヴァル』ではエヴァンスが「オール・アバウト・ロージー」のソロで名声を高めることになる、という関係が伏線になっていた。
エヴァンスは58年4月、マイルス・グループに加入。最初のスタジオ録音となったのが、58年5月の4曲。うち3曲は『死刑台のエレベーター』とのカップリングによる『ジャズ・トラック』(CBS)が初出だった。日本では池田満寿夫がアルバム・カヴァーを描いた『1958マイルス』に4曲が収録されて、馴染み深い。セクステットの音楽性を次の段階に引き上げたいと考えていたマイルスは、エヴァンスが適任だと判断し、それは吉と出た。
58年7月《ニューポート・ジャズ祭》でのライヴは、お祭りということで、2ヵ月前のスタジオ録音とは異なる明るい雰囲気。これは60年代初頭になってより顕在化する差異、つまりマイルスのスタジオ作では先進的なサウンドを実践するが、ライヴではハードバップに依拠した演奏にとどまっていた現象とも符合する。
その2ヵ月後の『ジャズ・アット・ザ・プラザ』はプラザ・ホテルで開催されたCBSのジャズ・パーティーにおける実況録音。アルバム化を目的としなかったこともあり、それが実現したのは73年だった。エヴァンスの加入以前のレパートリーが中心ながら、注目すべきは「ストレート・ノー・チェイサー」。エヴァンスはトランペットとテナーのソロにおいて、いずれも途中でバッキングをしなくなる。続くアルト・ソロのバックでは最後まで伴奏を続け、直後のピアノ・ソロに繋げていて、このあたりエヴァンス者としてはマイルスとコルトレーンのバックで不在であることが、かえってエヴァンスの存在感を意識させる効果を生んでいると感じてしまう。
エヴァンスは58年11月にマイルス・セクステットを退団する。在団機関はわずか7ヵ月だった。翌59年3、4月の『カインド・オブ・ブルー』は、マイルスの自伝によればエヴァンスの参加が以前から決まっていたということで、後任としてウィントン・ケリーが加入していた中で、ピアニスト&作曲家のエヴァンス抜きには同作が成立しなかった点を再認識されたい。
以上の他、マイルスとエヴァンスがサイドマンとして参加したミシェル・ルグラン『ルグラン・ジャズ』や、非正規盤で世に出た58年5月17日“カフェ・ボヘミア”での4曲(『Legendary Prestige Quintet Sessions』でオフィシャル化)と、同年6月30日ワシントンD.C.でのクラブ・ライヴ3曲(『Four Play』JMYでCD化)を収録している。58年5月から59年4月までのちょうど1年間に収まるマイルスとエヴァンスの共演。限られた期間ながら、その後のジャズ界に大きな影響を与えた二人が生んだ特別な時代だったことは間違いない。各アルバムのオリジナル・ライナーノーツ、新規ライナー、80年のエヴァンス・インタヴューを収めた21ページのブックレットを封入。