現在もジャズ界に最大級の影響を与え続けるモダン・ピアノの巨星ビル・エヴァンス。1980年9月15日に51歳で逝去してから38年のタイミングで、晩年に率いたトリオのドラマーを務めたジョー・ラバーベラ(1948~)のオリジナル・インタヴューをお届けする。
—―ビル・エヴァンス・トリオに加入したのは79年1月。当時はジョー・ピューマ(g)・グループのメンバーだったのですか?
JL:レギュラー・メンバーだったというわけではありません。当時私はジョー、ピアニストのベニー・レイトンとニューヨークのクラブに出演していて、それはベニーのバンドでした。ジョーとはそこで知り合ったのです。ジョーとビル・エヴァンスはよく一緒に競馬場へ行っていた仲でした。それでジョーが私をビルに推薦してくれました。また同時期に私はトゥーツ・シールマンス(hmca)とNYのクラブで仕事をしていて、ある日ヘレン・キーン(producer)がライヴを聴きに来て、翌日ヘレンから電話を受けてエヴァンス・トリオのオーディションを受けないかと誘われました。このような経緯があったので、ジョーが大きな役割を果たしたことは間違いありません。ドラマーのオーディションは78年10月にエヴァンスが“ヴィレンジ・ヴァンガード”に1週間出演した時に行われました。エヴァンスはその4ヵ月前に“ヴァンガード”でベーシストのオーディションをしています。ビルと同世代のミュージシャン—―ホレス・シルヴァーやアート・ブレイキー—―のオーディションは、やはり同じようにNYのクラブに1週間出演する時に行ったものです。
—―エヴァンスと一緒に演奏をしたのは、そのオーディションが初めてでしたか?
JL:はい。でもそれ以前からずっとビルの音楽を聴いていました。初めて聴いたのは12歳だった60年頃で、兄のパット(注:サックス奏者のパット・ラバーベラ)が買ったマイルス・デイヴィス(tp)の『Jazz Track』(58年)です(注:国内盤では『1958マイルス』に収録の音源)。そのサウンドにとても惹かれました。それからすぐに兄がマイルスの『カインド・オブ・ブルー』(59年、以上CBS)を買ってきて、さらにビルが好きになったのです。
Photo by Hiroki Sugita
—―すでにエヴァンス・トリオのベーシストだったマーク・ジョンソンと、初めて共演したのはいつですか?
JL:マークと共演したのは、78年10月のオーディションが初めてでした。マークとはすぐに自然な形で音楽的な関係を作ることができました。最初から演奏がしやすかったですね。
—―79年11~12月に24日間で21都市公演という、ハードなヨーロッパ・ツアーをこなしました。
JL:ハードなパートは覚えていませんよ(笑)。パリのライヴは録音されて、『The Paris Concert edition 1 &2』(Elektra Musician)で発売されました。イタリアやドイツでも演奏しましたが、すべてを覚えているわけではなく、細かいことや難しいことが起こったどうかは忘れましたね。
—―『The Paris Concert edition 1 &2』は生前にビル・エヴァンスが発売を認めた最後の公式アルバムと言われています。
JL:正確に言えば、事前にアルバム化が予定されていた音源ではなく、ソースは放送音源です。80年にエヴァンスが亡くなった後、録音から4年後の83年にWarner Brosがマスター・テープにアプローチして、発売されました。ビルはこのプロジェクトに賛成したと思いますよ。
—―お嬢さんが生まれた時に、エヴァンスは「ティファニー」を作曲して、トリオのレパートリーになりました。ビルがどのようなコンセプトで作曲したか知っていますか?
JL:それはわからないですね。でもその曲の中で、私の娘を完全に表現しています。娘を見て作曲したわけではありません。写真も見ていませんよ。80年2月29日に生まれた3日後にビルから電話を受けて、「こんな曲を作ったんだ」と、妻と私のために聴かせてくれたのです。
—―「ワルツ・フォー・デビイ」を始め、ビルは人名をつけた曲をいくつか書いています。
Photo by Hiroki Sugita
JL:彼がそのような作曲をするのは、何かを感じた時だけです。私にこう言ったことがあります。「多くの人々が『(たとえば)妻のために曲を書いてくれませんか?』と頼んできたけれど、それができるのは、私が何かを感じた時だけだ」と。ですからビルが娘のために曲を書いてくれたのは、とても名誉なことだと思っています。その後、娘のティファニーはこの曲に作詞をして出版しました。これも私の誇りです(注:ティアニー・サットン『Blue In Green』[2001年、Telarc]には、確かに作詞者としてTiffany LaBarberaの名前がクレジットされている)。
—―「ティファニー」がアルバム化された初演は、80年6月5日録音の6枚組『Turn Out The Stars』です。
JL:まず言っておきたいのは、多くのライヴ・アルバムが合法ではないということ。亡くなったビルはもちろん、マークと私の許可を得ていないからです。スタジオ録音を行わなかった理由は、ちょうど“ヴァンガード”でのライヴを録音したばかりだったから。ビルのアルバム・リリースの順番にはルールがありました。私たち(ビル+マーク+ジョー)は79年にトム・ハレル(tp)、ラリー・シュナイダー(ts,ss)参加作『ウィ・ウィル・ミート・アゲイン』を録音し、77年にはエディ・ゴメス(b)+エリオット・ジグモンド(ds)とのスタジオ・トリオ作『ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』(以上Warner Bros)を制作。ビルは同じような作品を連続して制作しませんでした。トリオはマークと私がメンバーになってさらに発展することが考えられていて、ビルは“ヴァンガード・ライヴ”を決断した、というわけです。もしビルがさらに生き続けたら、次はソロ・プロジェクトになったと思いますよ。死後発売されたライヴ作は録音状態があまり良くないし、どれも同じような曲ばかりで、ビルがそれらの発売を望んだとはとても思えません。ビルのディスコグラフィーを改めて確認すれば、彼がとても配慮して作品を重ねてきたことがわかるはずです。ビルはアルバムを自分の子供たちのように考えていて、作品に加えるものをとても注意深く選びました。自分が亡くなった後に残された作品が、ファンにどのように受け止められるかも考えていたのです。
(2018年4月19日、イタリア文化会館にて取材)
●取材協力:Five Stars Records