北欧で最も先進的なジャズを生み続けるノルウェーの首都オスロで、24年間にわたって営業を続けてきたジャズ・スポット“Bare Jazz”(バーレ・ヤス)が、この11月をもって閉店した。11月27日に店の入り口に、次のメッセージが貼り出された。
「Bare Jazzは不運にも永久に閉店することになりました。24年間ご支援いただきましたジャズと素敵なお客様、カフェのゲストに厚く御礼申し上げます」。
ジャズ・サックス奏者のボディル・ニスカBodil Niska(ts)とTom Sivesindの夫妻が経営したBare Jazzは、1階がCD&LPショップで、2階がイヴェント・スペース。ノルウェーのミュージシャンによるレコ発ライヴや、オスロ・ジャズ・サークルの定例会が開催され、ウェブサイトでは売り上げランキングを発表し、日本を含む海外からのメール・オーダーにも対応するなど、積極的に情報を発信した功績は大いに評価されるべきだ。
1996年にオスロKirkegataで開業し、2001年からGrensenで営業。アイキャッチャーの看板が設置された場所からお店の入り口までが中庭のようになっていて、晴れた日にはカフェ・スペースとして楽しめたのも、地元の人々に愛される所以だった。
ここからはBare Jazzとの個人的な思い出を記したい。オーナーのボディルと初めて会ったのは2003年5月。ノルウェーのMagne Bondevik首相が来日したタイミングに合わせて、同国のミュージシャン3組が東京で公演。ビーディー・ベル、ヘルゲ・リエン(p)に続く3組目として、渋谷JZ Bratに出演したのがボディルだった。ノルウェーにとって日本との国家的貿易事業における関連イヴェントに抜擢されたことの意味を考えれば、音楽大使の大役を請け負ったボディルに対する母国の期待感が浮き彫りになる。これはボディル、共演者Per Husby(ペル・フースビーp)と、控室で撮影したスリー・ショット。
この2ヵ月後の2003年7月に私は初めてノルウェーを訪れて、オスロから北に1時間半の《Kongsberg Jazz Festival》を取材。ミュージシャンや関係者が宿泊したホテルの前には野外ステージが設営され、その近くにはBare Jazzが出店し、ボディルが切り盛りした。
同ジャズ祭の取材を終えて、オスロへ移動。帰国する前日にようやくBare Jazzに伺うことができた。お店の品揃えはヨーロッパ・ジャズ・シーンの最前線を網羅していて、ボディルの目利きとしてのセンスがすぐにわかった。テナー奏者のボディルがスタン・ゲッツに影響を受けたオーソドックスなスタイルであるのとは対照的で、経営者としてのスキルを基盤にしていたのだ。当時日本では入手できなかったCDを中心に購入し、お店に好印象を抱いたのだった。
2005年にフィンランドからショーケース・ライヴ《Finnish Jazz Weekend》の招待を受けた。9月上旬に開催されるイヴェントのために2年ぶりに北欧を再訪する機会を得て、ヘルシンキからオスロへの延泊を思いつく。このアイデアを伝えたところ、オスロでのスケジュールをコーディネイトしていただいたのが、ノルウェー外務省のSverre Lunde氏だった。大のジャズ・ファンであるLunde氏は2003年の首相来日に帯同し、私が大使館関係者との少人数の酒宴をセッティングして意気投合。同年の《コングスベルク》では現地のノルウェー人が経営する日本庭園の茶室で、私のために返礼のお茶会を開いてくれた。
2005年9月のオスロ再訪は2泊となり、第1夜はジャズVIPとのディナー、第2夜はやはりジャズVIPを招いたLunde氏自宅でのパーティー。日中は現地ミュージシャンのインタヴューをすることになり、その取材場所として用意されたのが、Bare Jazzだった。
私のリクエストは同年4月に『A Year From Easter』(ECM)をリリースしたクリスティアン・ヴァルムルー(p)、同年6月に『Pixiedust』(Curling Legs)をリリースしたスールヴァイグ・シュッタイェル(vo)、英国生まれで95年にノルウェーへ移住し、2003年に現地実力者とのトリオ作『Solace』(Nagel Heyer)をリリースしたロイ・パウエル(p)の3名。ここに先方からのリクエストで新人のヒルデ・ルイーズ・アスビョルンセン(vo)が加わった。
2016年の《オスロ・ジャズ祭》取材まで、ノルウェーにはこれまで10回訪れており、そのたびにBare Jazzで宝物を掘り当ててきた。日本未発売のボディルのオススメ盤は、私の財産になった。閉店を告知した後で、基金キャンペーンが行われ、400,000クローネ(約480万円)が寄せられたが、時すでに遅し。オスロの中心地で店舗を経営する家賃と、ジャズに特化した運営を考えれば、ボディルには閉店の選択しかなかった。苦渋の決断である。
ノルウェーが誇る歌手カーリン・クローグは、Bare Jazz閉店の報を知り、Dagbladetのインタヴューで以下のように発言した。
「これはただただ、とても悲しいことです。オスロはBare Jazzがなくなって、貧しい都市になってしまうでしょう。悲しい知らせです。私のレコードを販売してくれたお店であり、ボディルは当地のジャズ・シーンにとっての熱心な熟練者であり続けました。この場所はノルウェーのジャズ音楽にとって大きな意味を持っているので、これは非常に悲しいことであり、ノルウェーの文化的生活にとって残念なことです」。
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閉店を告知した直後の取材で、ボディルは次のように語った。「このお店は24年間、私が育てた子供のような存在です。とても困難な状況です」。