2020年10月21日付「ニューヨーク・タイムズ」が掲載した記事「キース・ジャレットがピアノのない未来に立ち向かう」は、世界中に衝撃を与えた。ゲイリー・ピーコック(b)+ジャック・ディジョネット(ds)とのトリオが活動停止を表明してから5年あまり、自身の発言は伝えられないまま、式典の出席やカーネギーホール・コンサートのキャンセルが重なり、健康不安説が広まっていた。「画期的なミュージシャンは、彼が再び公の場で演奏する可能性を低くする健康上の問題を明らかにする」のリードに続く本文は、キースのインタヴュー・コメントを挿入。要約すれば2018年に2度の脳卒中を患い、そのため現在も今後も左手が回復しない、という悲しい現実が伝えられたのだった。
このほど刊行された『Keith Jarrett – A Biography』は、キースの生誕75年の節目に重なったバイオグラフィー書籍だ。同書は2015年のドイツ語版『Keith Jarrett – Eine Biographie』(Rowohlt)が原著ということで、多くのキース・ファンにとっては、よりハードルが低くなった待望の1冊になる。
英語版は単にドイツ語版を翻訳した内容ではない。ドイツ語版がA5判よりヨコが小さい210×130mmの361ページであるのに対して、英語版は菊判より少し大きい165×240mmの215ページ。このボリュームの差は前者にあった24ページ分の第1章「Der 8. Mai 1945 – Transatlantisch」や、いくつかの写真の削除に起因する。
英語版の内容は、生地での少年時代を描いた第1章「Growing up in Allentown」、1965~71年に在籍した3大バンド期の第2章「Three Steps to Jazz: Art – Charles – Miles」、初期ECMとの関係を記した第3章「Ideal Partnership」、70年代のアメリカン・カルテットを含む第4章「The Formative Years」、70年代のヨーロピアン・カルテットを含む第5章「Winding Paths to Musical Mastership」、70年代のソロ活動にスポットを当てた第6章「Limitless Soloist」、80年代以降のソロ作を扱った第7章「Grandeur and Crisis」、『ザ・ケルン・コンサート』を掘り下げた第8章「The History of a Cult Recording」、スタンダーズの全貌に迫った第9章「America’s Songbook」、80年代以降のクラシック音楽の足跡をまとめた第10章「The Jazz Man as Classical Musician」、クラシック~現代音楽作品に関する第11章「The Complete Artist」、2000年代以降のソロ・コンサートにフォーカスした第12章「Objection」。またこの5年間の新しい情報が盛り込まれていて嬉しい。ディスコグラフィー頁には2020年リリースの『Budapest Concert』(ECM)もしっかりと記載されている。
さらに特筆されるのは、英語版の翻訳者がクリス・ジャレット(1956~)であることだ。クリスはジャレット兄弟の末弟でピアニスト。これまで作品を通じたキースとのコラボがなかっただけに、このタイミングで本書の翻訳仕事を引き受けたことに興味が湧く。実際のところは現在ドイツの大学で指導者を務めるクリスに、ドイツ人著者のウォルフガング・サンドナーが依頼し、家族でなければ知りえない情報をヒアリングして、新たに本書に盛り込んだとのことだ。
キースの自宅を訪れた経験があるヴェテランの筆者だからこそ上梓できた、ファン必読の著作である。
【作品情報】
著書名:Keith Jarrett: A Biography
著者:Wolfgang Sandner、翻訳者:Chris Jarrett
出版社 : Equinox Publishing、215ページ、ハードカヴァー