昨年10月にノーベル文学賞を受賞した作家カズオ・イシグロ(1954~)。若い頃にミュージシャンを目指したほどの音楽好きであり、音楽を題材にした小説も著している。2009年発表の初の短編集『夜想曲集』がそれで、副題は「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」。イシグロは「全体を五楽章からなる一曲、あるいは五つの歌を収めた一つのアルバムとして味わってほしい」と語る。
その中からジャズに関係する部分を抜き出すと、2番目の作品「降っても晴れても」はまず題名そのものがジョニー・マーサー作詞&ハロルド・アーレン作曲のスタンダード・ナンバーの借用。冒頭で大学時代の自分と級友の女性について語る場面は、こんな具合だ。「サラ・ヴォーンやチェット・ベイカーがエミリの好み、ジュリー・ロンドンやペギー・リーがぼくの好み。ともに、シナトラやエラ・フィッツジェラルドはちょっと苦手だった」。そして物語の最後にかけられるレコードが『サラ・ヴォーン・ウィズ・クリフォード・ブラウン』に収録の「パリの四月」なのである。
4番目の短編「夜想曲」は、売れない男のサックス奏者が整形手術を受けた後、セレブ女性と知り合って起こる物語。セレブに請われて自分のバンドのCDから自信曲の「ニアネス・オブ・ユー」を、バング&オルフセンのプレイヤーでいっしょに聴くシーンで、次のように自分の演奏について心の中で語る。
「その歌ならありとあらゆるヴァージョンを聴いて聴き飽きている?そういう人にはぜひ第二コーラスを聴いてみてほしい。あるいはミドル・エイト(注:曲の途中に挿入される新たな8小節)から抜け出す瞬間を。バンドがIII-5からVIx-9に行き、おれが段階的に上昇していって、あの甘く優しいBフラットの高音を保ち続ける。こんなことができるのかと誰もが驚く。ここには、他のどのヴァージョンにもない色彩が――憧憬と後悔が――あると思う」。
ジャズ・サックス奏者の心情を示すこのような描写が、音楽的知識がなければ難しいのは言うまでもない。「ニアネス~」の収録作としては、『フランク・モーガン』(GNP Crescendo)、『ソニー・スティット・プレイズ』(Roost)、スタン・ゲッツ『モア・ウェスト・コースト・ジャズ』(Verve)、ブランフォード・マルサリス『トリオ・ジーピー』(CBS)等があり、イシグロは実際に誰かのレコードを聴いて参考にしたのかもしれない。
この短編には男がマネージャーと電話で口論した後、映画を半分観てビル・エヴァンスを聴き、「まずまず平静に夜を過ごせた」という場面が出てくる。さてそのエヴァンスのレコードとは何だろうか。気持ちが落ち着くような作品とは?私が男の立場だったら、ファースト・トリオの『ワルツ・フォー・デビイ』か、セカンド・トリオのバラード集『ムーンビームス』を聴くかな。ハロルド・ランド(ts)、ケニー・バレル(g)参加の『クインテセンス』も捨て難い。