数多くの国内制作盤を残し、日本でも高い人気を誇ったピアニストのジュニア・マンスが、1月17日にNYCの自宅で逝去した。92歳だった。死因は非公開だが、近年はアルツハイマー病と闘っていた。マンスは87歳になる2016年春に引退を表明しており、その後はマネージャー兼務のグロリア夫人によると思われるFacebookを通じた情報発信が、ファンへの朗報となっていた。直近では昨年8月5日付で、食事中のマンスをとらえた短い動画が公開されていたので、訃報は突然の出来事との印象も抱いたのだった。
私が唐突感を覚えたのは、昨年12月にマンスの94年録音作『Softly As In A Morning Sunrise』(Enja)のライナーノーツのために、近況について執筆したばかりだったからだ。引退後のマンスは、そのキャリアや夫人との生活、引退の原因となった病気に関して描いた2018年の映像作品『Sunset And The Mockingbird』に協力したほか、2020年2月には脚力を向上するため、セラピストと共に手押し車を使用した歩行訓練をする動画を投稿。健康を維持しながら自身のペースで日々を過ごしているのだと思っていた。
70年代にベテラン・ミュージシャンが再び活躍したムーブメント、いわゆるビバップ~ハードバップ・リバイバルのトレンドにおいて、マンスも恩恵を受けていた。トリオ作『Holy Mama』(76年、East Wind)がそれで、ハンク・ジョーンズのザ・グレイト・ジャズ・トリオを世に送り出した本邦レーベルが、それまで日本との関係がほとんどなかったマンスを制作したことが興味深い。ちなみにマンスの初来日公演はトリオを率いた77年9月だった。同時期には鈴木勲や本田竹広を制作していたFlying Diskからトリオ作『Live At Sweet Basil』がリリース。日本制作の流れは90年代のPaddle Wheel、2000年代のM&Iへと継承された。
マンスが日本と親密な関係を築いていたことを示す好例が、《100ゴールド・フィンガーズ》だ。これはピアニスト10名が一同に会して、ソロ、デュオ、トリオで競演するコンサートで、90年に第1回を開催。多くの好評を得て、翌91年に第2回が行われ、その後は隔年の奇数年が恒例となり、第11回を数えた2009年まで継続された。歴代で30名超のピアニストが参加したこのイヴェントにあって、マンスはケニー・バロンと並んで唯一、全11回の皆勤賞を達成している。
「こんなに楽しい演奏旅行は他にないんだ。私にとっては親友でありブルース・ブラザーズでもあるレイ・ブライアントといつも一緒になれるのも嬉しいね。彼とステージで連弾できるのはこのツアーぐらいだから」(マンス、『100 Gold Fingers – Piano Playhouse 2001』ライナーノーツより)
キャリア初期の60~62年に『The Soulful Piano Of Junior Mance』『At The Village Vanguard』『Happy Time』(以上Jazzland)等のトリオ秀作を連発したマンスは、50タイトル超のリーダー作を残した。その中でファンである私にとってやはり今も原点だと思うのが、59年録音の初リーダー作『Junior』(Verve) 。1曲目の「ア・スムーズ・ワン」がアルバムの魅力を決定づけている。洗練されたブルース・フィーリングがマンスの持ち味であり、その美点が好ましく反映されたトラックなのだ。作曲者のベニー・グッドマンが41年に発表した後は、マンス・ヴァージョンまでバディ・リッチ、サイ・タフらカヴァーが数例しかなく、つまりマンスの選曲センスがこのアルバムの評価を高めたと言える。「ウィスパー・ノット」(ベニー・ゴルソン)、「バークス・ワークス」(ディジー・ガレスピー)といった50年代に生まれたジャズマン・オリジナルや、マンスの代表的自作曲「ジュビレーション」の収録も嬉しい。メンバーは当時オスカー・ピーターソン・トリオのレギュラーでVerve所縁のレイ・ブラウン(b)と、マンスと共にディジー・ガレスピー・グループに在籍中だったレックス・ハンフリーズ(ds)とのトリオ作である。
●『Junior』試聴
https://open.spotify.com/album/6RnF7gvqhPFRbu5raMGQgN