個人的には2010年にノルウェー《Nattjazz》とドイツ《Moers Festival》でソロ・ステージを観ているマリ・クヴィエン・ブルンヴォル。声、おもちゃの楽器、エレクトロニクスを使用するユニークなスタイルを生かしたユニット、ブュルディング・インストゥルメントで来日した彼女に話を聞いた。
photo:Hiroki Sugita
モルデからベルゲンへ移ったのはいつですか?
MKB:ハイスクールを卒業して、19歳で音楽を学ぶためにオスロへ移りました。そして20歳でベルゲンへ移住。13年前のことです。
ジャズ祭と世界遺産があるベルゲンは、ミュージシャンにとって住みやすいですか?
MKB:プロフェッショナルなアートと音楽に溢れ、ミュージシャンにとって住みやすい街だと思います。質の高いミュージッシャンがたくさん住んでいて、彼らはとてもフレンドリー。オープンで競争が激しいわけではなく、お互いに協力し合って生活しているのは良い点ですね。
ベルゲン市からの助成金システムなどはありますか?
MKB:あります。そのおかげで私たちは色々なプロジェクトを実現させることができるのです。私のようにコマーシャルではない音楽に対しても、サポーティヴですよ。その点ではとても恵まれていると思います。
最初に演奏した楽器は?
MKB:楽器よりも前に“歌って”いました(笑)。最初に演奏したのはピアノです。でもそれほど上手ではありません。ギターも少し。自分自身のことは器楽奏者だとは思っていないのです。
音楽教育の履歴は?
MKB:音楽専門のハイスクールが3年、オスロ大学が1年、ベルゲンのグリーグ音楽院で4年の、合計で8年間です。ピアノを上手に弾く方法は身に着けていないけれど、楽器を探究することには長けていると思います。もちろん歌うことの技術も。
プロとしてどのように個性的なスタイルを築いたのか、に興味があります。
MKB:私はジャズを学んだ経験を通じて、自分自身を表現する気持ちを強く持ちました。音楽というものを一つのジャンルではなく、もっと開かれたものとしてとらえています。2005年に劇場のコンテンポラリー・ダンスのための音楽を委嘱されたことがあります。これが自分以外の人のために作曲する初めてのジャズではない作品になりました。自分自身を驚かせられることが重要だと考えています。私が聴いたことがないものを探しているのです。20代前半はワン・ルームの自宅の床に座って自分の周囲に楽器を並べて、何時間も自分の演奏に耳を傾けていました。新鮮に感じられるものを探し続けたのです。まさにリサーチですね。表現方法を見つけるプロセスです。おもちゃの楽器やエレクトロニクスはそのようなサウンドを探し求めるには有効です。違う歌い方を見つけることにも役立ちます。その行為は楽器と会話していると言えるでしょう。私の声のパートナーを見つけることにも似ています。楽器として使えるものを探しに、フリー・マーケットへ行くのが好きですね。
ノルウェーのシゼル・アンドレセン(vo)から影響を受けた部分はありますか?
MKB:シゼルから最も大きな影響を受けたというわけではなく、影響を与えられた一人です。エレクトロニック・ミュージック、エレクトロニカ、ヒップホップ、ノルウェーの民族音楽、インド音楽をたくさん聴きました。自分のヴォーカルに役立てるため、2年間ノルウェーの民族音楽を集中的に研究。クラシックからノイズ・ミュージックまで幅広く好んで聴いてきました。
ソロ・アルバムの発表前の2010年には、《メールス・ジャズ祭》の大舞台に出演しています。
MKB:私にも何故そうなったのかわかりませんでした。自分でも驚いたほどです。様々な国で演奏できたのは幸運でした。ノルウェーの仲間やブッキング・エージェントがサポートしてくれたのが良かったのでしょう。ライヴ・パフォーマンスを始めた頃は小さな会場をたくさん回りました。フリー・コンサートです。自分の音楽を信じることが大切だと思います。
デビュー作『Mari Kvien Brunvoll』(2012年、Jazzland)の制作経緯は?
MKB:Jazzlandからレコーディングを提案されました。当時の私はまだ若くて、あまり伝手がなかったのですが、ブッゲ(・ヴェッセルトフト)がとても良い人なので、Jazzlandに決めました。3ヵ所のライヴ・レコーディングです。
デビュー作をスタジオではなくライヴ録音にした理由は?
MKB:ミュージシャンとしてスタジオで録音するための十分な経験がなかったからです。自分を表現するためには、観客を前にしたライヴ会場の方がやりやすかった。観客とコンタクトを取りながら音楽を作る、私のやり方に合っていました。スタバンゲルの“12ポインツ祭”、イタリアのジャズ祭、アムステルダムのクラブ“ビムハウス”でのライヴ音源で、多くをNRKラジオ(ノルウェー放送協会)が録音してくれたので音質も良く、私には幸いでした。
デビュー作はほとんどがご自身の作曲です。作曲の方法について教えてください。
MKB:どの曲も長い時間をかけて生み出されたものです。楽曲のアイデアをスケッチすることから始まって、即興演奏を繰り返しながら推敲し、完成形に向かって作業を重ねます。即興のバランスも重要です。作詞に関しても即興的に行い、改めて自分がやったことをじっくりと考えます。即興的なサウンドを基に歌詞を作っていくのです。もちろん歌詞も重要ですが、抽象的な言葉になる場合もあります。作曲に関しては誰かにスケッチを見てもらうことも大切で、デビュー作に関しては私の夫の意見も取り入れました。
次はスタイン&マリズ・デイドリーム・コミュニティについての質問です。これまでの活動は?
MKB:スタイン・ウルヘイム(vo,g,b,fl,per,effects)とは大学のジャズ科の級友でした。ギターとヴォーカルでいっしょに演奏を始めました。音楽に対する興味のポイントが同じだったので、演奏は楽しかったです。初めてスタイン&マリズ・デイドリーム・コミュニティを名乗って2009年にベルゲンの《ナットジャズ》に出演した時は、すべて新曲を用意しました。今までに3枚のアルバムを発表しています。
ソロとデュオの活動の順番を整理すると?
MKB:どちらも同じくらいの時期に始まり、アルバムの録音と発表が相次いだので、両方を並行して活動した感じです。
デイドリーム・コミュニティの音楽性とは?
MKB:メロディックでフィーリングが豊かで、それでいてシンプル。抽象的なものとシンプルなもののコントラストを描くサウンド。ワードレスで神秘的な世界へと誘う、聴き手には馴染みがないような音風景。今でも新鮮な音を探し続けています。自分の音楽を言葉で説明するのは、やはり難しいですね(笑)。
2013年の『デイドリーム・ツイン』のアルバム・コンセプトは?
MKB:1枚目の『デイドリーム・コミュニティEP』の時に制作して収録しなかった楽曲を入れたことが、アルバム名の由来です。だから収録曲のいくつかは前作に入っていてもおかしくなかった。前作のコンセプトを前進させて、収録時間を長くしたのも特徴です。数多くのライヴをこなしてからスタジオに入ったという点では、前作と同様のプロセスを経て制作しました。
3枚目は2015年発表の『フォー・インディヴィジュアルズ・フェイシング・ザ・テラー・オブ・コスミック・ロンリネス』です。
MKB:このアルバムを制作した時は、前作ほどライヴ活動はしていない状態でスタジオに入りました。第一子の妊娠中だったからです。前2作のように観客を前にしたライヴで楽曲を演奏した上で録音したのではなく、お互いにまだ共演したことがない素材を持ち寄って、スタジオで作り上げました。シンセサイザーとプログラミングも担当したプロデューサーのJørgen Træenの力も大きかったです。
今回来日公演を行ったブュルディング・インストゥルメントについて教えてください。
MKB:メンバーはオイヴィン・ヘッグ=ルンデØyvind Hegg-Lunde(ds,per)、オースムン・ヴェルツィ―ンÅsmund Weltzien(syn,electronics)と私で、2008年ベルゲンで結成。一つのイメージに固定されない名前を選びました。メンバー全員が自分たち固有のサウンドを作ることを目指しているのは間違いありません。
バンドの結成からデビュー作『Building Instrument』(2014年、Hubro)を発表するまで時間がかかった理由は?
MKB:メンバーそれぞれが多くのプロジェクトに関わっていて、とにかくするべきことが多かったのです。全員が安易にアルバムを制作するのではなく、バンドの哲学をしっかりと共有したいと考える人たち。どのように私たちの音楽を発展させればいいのか、ディスカッションを重ねました。ポップ・バンドでもなく、一般的なジャズ・バンドとも違う独自性を打ち出すためです。時間をかけたおかげで、今はお互いのことを深く理解し合っていて、様々なサウンドを試すこともできます。
このバンドでご自身が初めてモルデの方言を使用したとのことです。
MKB:一番の理由はアーティストとしての欲求と興味です。モルデ語の独特な響きで歌うことに興味がありました。歌ってみるとノルウェーの共通語とは異なる感覚が得られたのです。モルデ語と共通語に言語的に大きな違いがあるわけではありませんが、自分が日常的に話す言葉で歌いたい気持ちがありました。このバンドの中で私の母国の方言を歌うための場所を見つけることができました。
2016年発表の第2弾『Kem Son Kan Å Leve』について教えてください。
MKB:アルバム名は「どう生きるべきかは誰にもわからない」という意味。詩のようなものです。2015年9月にオスロ郊外のアート・センターで開催されたコンサートのライヴです。クルト・シュヴィッタース展のために委嘱されました。彼の作品からインスピレーションを受けて、私がメロディのアイデアと歌詞を書き、全員のアレンジと即興で演奏しています。
シュヴィッタースは様々な活動をしたドイツの芸術家ですね。
MKB:彼は1930年代にモルデに住んでいて、名前は知っているけれど作品を観たことがない、という程度でした。他の2人はまったく知らなかったそうです。でも作品を見て、自由な発想で生まれた美しいものだと感じました。私たちの音楽と違和感がなかったのです。彼はヴォイス・アーティストでもあったので、それを利用してすべてが自由に基づいた作品に仕上がったと思います。