1977年7月、東京・田園調布の“田園コロシアム”で、本邦初の本格的野外音楽フェスティヴァルが開催された。テニス会場として知られていた同所が、ジャズ・コンサートのために使用されるということで、それ自体が大きなインパクトを与えた。77年はピンク・レディの公演と全日本プロレスの興行が同所で開催され、その後、音楽や他のスポーツ会場として使用されていて、77年がその転機になったと言えそうだ。
第1回《ライヴ・アンダー・ザ・スカイ》は7月22~24日の3日間。初日が笠井紀美子、2日目がV.S.O.P.ザ・クインテット(以下VSOP)、3日目が「ジャズ・オブ・ジャパン」(渡辺貞夫、日野皓正ほか)だった。当時高校2年生の私は、級友と3人で2日目のVSOPを鑑賞。前売りで購入したチケットは、テニス選手が試合をする土のコート=アリーナ席の最後列であった。VSOPとはハービー・ハンコック(p,key)のキャリアを振り返る趣旨で、前年=76年6月の《ニューポート・ジャズ祭》で企画されたステージの出演バンドの1組。60年代のマイルス・デイヴィス・クインテットのメンバーだったハービー、ウェイン・ショーター(ts,ss)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)に、当時からの共演仲間だったフレディ・ハバード(tp)が加わった5人編成だ。3組を収めた76年の2枚組ライヴ作『V.S.O.P,』(邦題『ニューポートの追想』)は、米国盤が77年4月に発売されていて、私は輸入盤を聴いて“予習”していた。
そして迎えたVSOPの初来日公演。40年前の記憶をたどったその時の印象を一言で表せば、「アコースティック・ジャズの迫力に圧倒された」。ハバードにしろトニーにしろ、音の大きさではそれぞれの楽器の最高峰であり、全員が60年代前半に頭角を現し、以降シーンの中心で活躍を続けてきた強者たち。屋内ではなく野外の独特な雰囲気の中で体験した世界最高のジャズは、16歳の少年には十分すぎるほど刺激の強い音楽だったのである。その模様は約3ヵ月後に2枚組LP『熱狂のコロシアム』(英語名『Tempest In The Colosseum』)として発売された。
初回で大成功を収めた《ライヴ・アンダー》は、引退状態のレッド・ガーランドの初来日が実現した78年度、VSOP再来日の79年度、チック・コリア、スタンリー・クラークらの80年度、ソニー・ロリンズ、パコ・デ・ルシア、ハービー&サンタナの81年度と、5年連続で開催。ビッグ・ネームのみならず、独自の特別編成を実現させる企画力が多くのジャズ・ファンの支持を集め、夏の風物詩として定着した。82年の休催を挟んで、83年からは会場を“よみうりランド・オープンシアターEAST”へ移し、92年の第15回まで連続開催された。マイルス・デイヴィス、ギル・エヴァンス・オーケストラ+ジャコ・パストリアス、オーネット・コールマン、サン・ラ・アーケストラ、ウェザー・リポート、クルセイダ-ズ等々、私は毎年客席に身を置いて数多くのステージから感動を与えられた。ラリー・コリエル&ライヴ・フロム・バイーア、パット・メセニー・グループ、ハバードからウォーレス・ルーニー(tp)に交代したVSOP、マーカス・ミラー&デヴィッド・サンボーンが出演した最終回から、すでに25年が経ったというのも感慨深い。日本のジャズ・ライヴ史に大きな足跡を残した《ライヴ・アンダー》、その価値と偉業を節目の機会に広く再認識していただければと思う。