この写真はジェイムス・テイラー(vo,g)が5月31日に米ハリウッドボウルで行ったコンサートの終演後に、バックステージで撮影された1枚。JTのTwitterにアクセスしたら、ジョニ・ミッチェル(vo,g)と抱擁するこの写真が目に飛び込んできたので驚いた。そして様々な想いが私の頭に浮かんだ、というわけである。
ジョニ(1943~)は2015年に自宅で意識を失った姿で発見され、病院に緊急搬送。以来、治療に努めて、公の場所に姿を見せることがほとんどなかっただけに、古くからの友人であるJT(1948~)をわざわざ訪ねた姿が、オフィシャルに公開されたのは朗報となった。ジョニのウェブサイトには、最近開催されたジョニを称える記念碑の除幕式の動画や、近々行われるジョニのトリビュート・イヴェントの情報などがアップされており、現役感を伝えるデザインで作られている。
JTもジョニもファンになったのは、74年からビルボードのチャートをつけ始めた「全米トップ40」がきっかけだった。
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リアルタイムで言うと、JTは75年のシングル「ハウ・スウィート・イット・イズ」(「君の愛に包まれて」)と収録作『ゴリラ』。同曲は72年にJTと結婚したカーリー・サイモンがコーラスをつけ、デヴィッド・サンボーン(as)が間奏を吹いた。カーリーはJTとのデュエット曲「愛のモッキンバード」を74年にヒットさせ、二人は公私共に絶好調だった。
ジョニは74年のトップ10ヒット「ヘルプ・ミー」に新鮮な印象を抱き、同年末の「ビッグ・イエロー・タクシー」が決定打に。後者はトム・スコット(ts)&LAエキスプレスとの共演ライヴ『マイルス・オブ・アイルズ』からのシングル・カットで、当時スタジオとツアーでフュージョン・バンドを起用し、フォーク・シンガー・ソングライターから脱皮したジョニに共感したのだった。75年にジョニの初来日公演@日本武道館がアナウンスされた時、これは必見だと思って前売り券を購入。ところが公演は中止になり、76年に池袋のデパート内のチケットセンターで払い戻しを受けた。仕切り直しで開催された83年の日本武道館公演に行ったが、集客は寂しい感じだった。
高校2年生になった77年4月、本格的にジャズ・ファンを志して「スイング・ジャーナル」を毎月購入し始めた私は、同年末にリリースされたジョニの2LP作『ドンファンのじゃじゃ馬娘』に衝撃を受けた。ウェイン・ショーター(ss)、ジャコ・パストリアス(el-b)、ドン・アライアス、アレックス・アクーニャ、アイアート(per)、ミシェル・コロンビエ(p)、マイケル・ギブス(orchestration)ら、ジャズ~フュージョン界の才人を起用した斬新な音作りと、アーティスティックなアートワークにより、さらに前進した姿を印象付けた。この路線が極まったのが、晩年のチャールズ・ミンガスとのコラボ作となった79年の『ミンガス』。思いっきりジャズに振り切れて、しかも本来はジャズ・ヴォーカリストが取り組むべきテーマで最上の成果をジョニが挙げたことによって、一気にジャンルのトップへと躍進。そして79年録音/80年発売の2枚組ライヴ『シャドウズ・アンド・ライト』は、当時の3大フュージョン・グループであるウェザー・リポート、パット・メセニー・グループ、ブレッカー・ブラザーズからのマイケル・ブレッカー(ts)、ライル・メイズ(key)、パット(g)、ジャコ、アライアスがジョニのためにライヴ・バンドを組んだわけで、ジャズ、フュージョン、ロック、ポップス、歌謡曲を同時代の音楽として吸収していた私のような音楽ファンにとっては、刻一刻と変化するポピュラー音楽の歴史に立ち会っている感覚があった。
1970年代初め、JTとジョニは公私共に蜜月関係を築いていた。記憶に新しい作品では『The Circle Game / Joni Mitchell & James Taylor』(Woodstock Tapes)が挙げられる。70年10月28日の英ロイヤル・アルバート・ホールでの実況録音で、当時JTとジョニが行っていたデュオ・コンサートの一コマだ。近年、FM放送音源をCD化したものが正規盤として流通しており、ファンにとっての嬉しいアイテムとなっている。
ジョニ次第ではあるが、キャロル・キング&JTのようなリユニオンが実現できれば、ファンにとって計り知れないほどの感動を与えることは間違いない。