8月23日早朝の情報番組を見ていたら、俳優ジョージ・チャキリスのマスコミ対応映像が流れてきた。前日に東京で初日を迎えたミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』の日本公演にタイミングを合わせて、チャキリスが来日したのである。
改めて言うまでもなくチャキリスは1961年公開の同名映画に出演し、映画史にその名を刻む名優。映画を観たことがなくても、ダンス・シーンの写真は見たことがある人は多いと思う。今回は客席が360度回転する劇場での新しい演出による上演も話題で、チャキリスは「初めてなのでとても興味があります」とコメントした。驚いたのは(84)とクレジットされた実年齢が信じられないほどの若々しさ。俳優業はリタイヤして、趣味を生かしたジュエリー・デザイナーの道を歩む、悠々自適の生き方が本人には合っているということなのだろう。

これをきっかけに、たちまちチャキリスへの興味が高まり、同時に過去の記憶が甦った。私が中学生だった1974年に銀座のテアトル東京で映画『ウエスト・サイド物語』(私の記憶では“ストーリー”ではなく“物語”)を観たことである。
日本での初公開から13年後の大型劇場での再公開の理由は記憶にないが、当時の若者に同作の魅力を知らしめたいとの、主催者の思いがあったとは想像できる。中学生が自主的に同作を目的として映画館に行くのは早熟だったかもしれない。動機は当時の級友が大の映画ファンで、話題になったから。ちょうどブルース・リーが大人気だった時で、洋画を観ることにハマった。級友は『スクリーン』と『ロードショー』を定期購読していて、その付録のデータブックをネタ元に、例えば「この作品の監督と主演は誰?」「音楽担当は?」のようなクイズを学校の休み時間に出し合いながら、お互いに映画の知識を育んだのだった。

本稿はジャズとは無関係の話なのかな、と疑問をお持ちの向きがいらっしゃるようなので、ここで話題をシフトして、本ミュージカルのジャズ・アルバムを紹介したい。
1957年にブロードウエイ初演が行われた同作は、映画版が61年10月18日にユナイテッド・アーティスツ配給で全米公開。その3ヵ月後にあたる62年1月24日に、カヴァー・アルバムを録音したのがオスカー・ピーターソン(p)だ。ピアノ+ギター+ベースのプリ・バップ・トリオで活動していた巨匠は、59年にレイ・ブラウン(b)+エド・シグペン(ds)とのモダン・トリオで『フランク・シナトラの肖像』を初録音。ジョージ・ガーシュウィン、コール・ポーター等のソングブック、シカゴ“ロンドン・ハウス”でのライヴ『ザ・トリオ~オスカー・ピーターソンの真髄』、ミルト・ジャクソン(vib)を迎えた『ヴェリー・トール』と、名門Verveを舞台に秀作を連発し、トリオで『ウエスト・サイド・ストーリー』を録音している。
作曲レナード・バーンスタイン、作詞スティーヴン・ソンドハイムが担当したサウンドトラックから、「アイ・フィール・プリティ」「トゥナイト」「サムホエア」等の7曲を選曲。ピーターソンの人気作の1枚となったのは、映画公開から誰よりも早く制作に取り組んだこととも関係していると思う。

57年が舞台での初演だった「ウエスト・サイド・ストーリー」は、58年12月にロンドンでヨーロッパ初演。作品の魅力が拡大する中、59年8月にアンドレ・プレヴィン(p)が実はジャズ・ミュージシャンとして、いち早くトリオでカヴァー作に取り組んでいたことも見逃せない。56年にシェリー・マン(ds)・トリオの作品に加わってContemporaryとの関係が始まると、同年の『マイ・フェア・レディ』を頂点として58年までに、マン・トリオの4作品に参加。また自身のリーダー作も57年からContemporaryで制作を始め、58年までに『パル・ジョーイ』『ジジ』といったミュージカル曲集にトリオで取り組んでいた。
その流れを踏まえれば、59年に『ウエスト・サイド・ストーリー』へ至ったのは自然だと思える。レッド・ミッチェル(b)+シェリー・マンとのトリオによる全8曲は、ピーターソン盤に未収録の「クール」「アメリカ」「ジー・オフィサー・クラプキ」を含む。

98年リリースの『デイヴ・グルーシン・プレゼンツ・ウエスト・サイド・ストーリー』(N2K Encoded Music)は数多くの映画音楽を手掛けたグルーシン(p)が、マイケル・ブレッカー(ts)、ビル・エヴァンス(ss)、リー・リトナー(g)らフュージョン界のトップ・ミュージシャンを迎え、グロリア・エステファン、ジョナサン・バトラー、ジョン・セカダのヴォーカリスト3名をフィーチャーした豪華版。グルーシンが57~58年に初めてこのミュージカルを聴いた時に新鮮な衝撃を受けたことが制作動機の基盤となり、名作の誕生から40周年を記念して制作された1枚である。
