私が定期購読をしている洋雑誌の一つが米「Jazz Times」。自宅のポストで最新号を見つけるたびに、どのような有益な記事が掲載されているだろうかと期待が高まる。老舗米ジャズ誌「Downbeat」の最新号が114ページなのに対して、「Jazz Times」は64ページということで、ページ数では比較にならないのだが、その分を企画力が補っていると思う。
テリ・リン・キャリントン&ソーシャル・サイエンスが表紙を飾る2020年3月号では、「In Memory Of…」と題して、2019年に逝去したミュージシャンおよび関係者を追悼する18ページの特集記事を組んでいる。毎年恒例のこの記事の特徴は、ミュージシャンが寄稿者であることだ(ジャズ・ライターによる聞き取りを含む)。PJではちょうど1年前にも関連記事を公開している。
⇒ https://pjportraitinjazz.com/column/20190314_3138/
今回取り上げられた故人は19名。ジョアン・ジルベルト(g,vo)をルシアーナ・ソウザ(vo)が、ハロルド・メイバーン(p)をエリック・アレキサンダー(ts)が、ドリス・デイ(vo)をジュディ・カーマイケル(vo)が、ジョセフ・ジャーマン(sax)をアート・アンサンブル・オブ・シカゴの同僚ロスコー・ミッチェル(sax)が、ジンジャー・ベイカー(ds)をビル・フリゼール(g)が、アンドレ・プレヴィン(p)をジョン・ケーニッヒ(producer)が、デイヴ・サミューエルズ(vib)をカリビアン・ジャズ・プロジェクトの同僚パキート・デリヴェラ(as,cl)が、ヴィック・ジュリス(g)をデイヴ・リーブマン(ss,ts)が、リチャード・ワイアンズ(p)をピーター・バーンスタイン(g)が、ジャック・シェルドン(tp)をケン・ペプロフスキー(cl,ts)が、それぞれ所縁がある故人への想いを明らかにしている。
特集の中で、昨年11月5日に75歳で永眠したレコーディング・エンジニアのヤン・エリック・コングスハウクについて、テリエ・リピダル(g)が追悼コメントを寄せていて、興味をひく。70年代からリピダルの作品を手掛け、オスロにレインボー・スタジオを構えた80年代以降も含めて数多くの作品にクレジットがあるコングスハウクは、リピダルにとって同じノルウェー人であることと合わせて、アルバム制作で重要な役割を担った恩人のような存在だったのかもしれない。以下にその記事の日本語訳を紹介したい。
1970年に私はオスロ郊外のホヴィコッデン・アート・センターで、ヤン・ガルバレクのECM初作となる『アフリック・ペッパーバード』に参加していました。私たちはジョージ・ラッセルの作品で共演経験がありましたが、マンフレート・アイヒャーは同作の仕上がりに満足していなかったのです。しかし私たちは、何をするべきかわかりませんでした。その時ドラマーのヨン・クリステンセンが「ヤン・エリック・コングスハウクという優秀なテクニシャンを知っている」と言ったのです。それで連絡を取ると、「オスロのアルネ・ベンディクセン・スタジオに来られるのならば、今夜11時には始められるよ」。その言葉に従ってレコーディングを始め、夜通しのセッションを終えました。ヤン・エリックは自分の仕事の進め方を知っていて、すべてが信じられないほど速く行われました。マンフレートが同作での仕事ぶりにとても満足したことで、ヤン・エリックはECMのレギュラー・テクニシャンになったというわけです。
彼とは本当に数多く、いっしょに仕事をしてきました。多くのテクニシャンの場合、ドラムのチェックだけで数時間待たなければならなかったりしますが、ヤン・エリックならとても速く、30分程度で準備ができてレコーディングに入れます。その理由は彼がミュージシャンなので、レコーディングにおいて良いサウンドを得る方法を理解していたから。仕事が速く、とても良いサウンドを得てくれました。彼が作るサウンドには透明感があって、おそらくそのようなことを成し遂げた最初のサウンド・テクニシャンだったと思います。
私のレコーディングではエコーチェンバーにフィルタリングを使用した、特別なエコー・エフェクターを、彼といっしょに作りました。彼はギタリストであり、当時の私よりもジャズ寄りのプレイヤーだったので、私が探し求めていたものがわかっていたのです。この音作りに関しての共同作業を通じて、私はヤン・エリックのことがよく理解できました。スタジオを離れた場所でも友人関係だったと言うつもりはありません。ほとんど会うことはなかったからです。でもスタジオ内では素晴らしい時間を共有しました。彼は非常にスマートで、好感の持てる男であり、優れたギタリストでした。
最後に話したのは昨年のこと。オスロで彼を称えるコンサートが開かれ(注:PJの記事はこちら:https://pjportraitinjazz.com/news/20190316_3163/)、私は参加できなかったので自宅に電話をしたところ、彼から病気について告げられました。その時までに彼はレインボー・スタジオ(84年に設立したレコーディング施設)の仕事から引退。電話では楽しい会話ができて、とても嬉しく思いましたが、病気がどれだけ重かったのかは知りませんでした。訃報を知った時は、ただ驚くばかりでした。
いっしょに仕事がしやすい点で、これからも彼のことを思い出すでしょう。私の楽曲「ザ・リターン・オブ・ペル・ウルヴ」(1995年作『イフ・マウンテンズ・クッド・シング』に収録)に関して。ちょうどリハーサル中で、コード進行を確認していたところ、ヤン・エリックがそれを録音。リハーサル音源にもかかわらず、それがアルバムに収録されました。彼が聴いて、それが正しいサウンドだとわかったからです。このことと、美しく仕上げて『アフリック・ペッパーバード』セッションで助けてくれたこと。これこそが私が思い出すヤン・エリック・コングスハウクなのです。